輩は猫だけれど、エピクテタスを

吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の家(うち)に寄寓(きぐう)する猫で、世間一般の痴猫(ちびょう)、愚猫(ぐびょう)とは少しく撰(せん)を殊(こと)にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心は固(もと)より尻尾(しっぽ)の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂(けっきそうきょう)の沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴(あっぱれ)な美挙だ。人の許諾を経(へ)ずして吾妻橋(あずまばし)事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴(ふいちょう)する以上は、車夫、馬丁(ばてい)、無頼漢(ぶらいかん)、ごろつき書生、日雇婆(ひやといばばあ)、産婆、妖婆(ようば)、按摩(あんま)、頓馬(とんま)に至るまでを使用して国家有用の材に煩(はん)を及ぼして顧(かえり)みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、霜解(しもどけ)は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側(えんがわ)へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ御三(おさん)の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日(あす)とも云わずこれから出掛けようと勇猛精進(ゆうもうしょうじん)の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉(のど)の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌(しゃべ)れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心(かんじん)の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石(ダイヤモンド)の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの智識も無用の長物となる。これは愚(ぐ)だ、やめようかしらんと上り口で佇(たたず)んで見た。
 しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨(ゆうだち)が来るかと待っている時黒雲共(とも)隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄死(むだじに)をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚(よご)すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた因果(いんが)で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭(ぜっとう)に相互の思想を交換する技倆(ぎりょう)はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就(じょうじゅ)するのはそれ自身において愉快である。吾(われ)一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと云う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。
 向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が角地面(かどじめん)を吾物顔(わがものがお)に占領している。この主人もこの西洋館のごとく傲慢(ごうまん)に構えているんだろうと、門を這入(はい)ってその建築を眺(なが)めて見たがただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。迷亭のいわゆる月並(つきなみ)とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった大隈伯(おおくまはく)の勝手にも劣るまいと思うくらい整然とぴかぴかしている。「模範勝手だな」と這入(はい)り込む。見ると漆喰(しっくい)で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の神(かみ)さんが立ちながら、御飯焚(ごはんた)きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは剣呑(けんのん)だと水桶(みずおけ)の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚(めしたき)が云う。「知らねえ事があるもんか、この界隈(かいわい)で金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪(かたわ)だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも云えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の歳(とし)さえ知らないんだもの」と神さんが云う。「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木(とうへんぼく)だ。