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鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居(おすまい)ですこと」と座敷中を睨(ね)め廻わす。主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草(たばこ)をふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩(あまも)りか、板の木目(もくめ)か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促(うな)がす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして云う。鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤(いきどお)る。しばらくは三人鼎坐(ていざ)のまま無言である。
「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は、「実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷(かどやしき)なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田(かねだ)と云う標札(ひょうさつ)が出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫人に対する尊敬の度合(どあい)は前と同様である。「実は宿(やど)が出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少し利(き)いたろうという眼付をする。主人は一向(いっこう)動じない。鼻子の先刻(さっき)からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり存在(ぞんざい)過ぎるのですでに不平なのである。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする。元来ここの主人は博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧を蒙(こうむ)る事は覚束(おぼつか)ないと諦(あき)らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶(うかつ)で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は毫(ごう)も起らんのである。鼻子の方では天(あめ)が下(した)の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも大分(だいぶ)接して見たが、金田の妻(さい)ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、いわんやこんな燻(くすぶ)り返った老書生においてをやで、私(わたし)の家(うち)は向う横丁の角屋敷(かどやしき)ですとさえ云えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「金田って人を知ってるか」と主人は無雑作(むぞうさ)に迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「牧山男爵(まきやまだんしゃく)さ」と迷亭はいよいよ真面目である。主人が何か云おうとして云わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬(おおしまつむぎ)に古渡更紗(こわたりさらさ)か何か重ねてすましている。